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ウィスキー 竹鶴政孝

留学するまでの生い立ち

竹鶴政孝の出身地は広島県賀茂群竹原町(現在の竹原市)で1894年6月に酒造業を営む家の三男として生まれています。酒屋の息子として父である竹鶴敬二郎から酒造りの基本や厳しさを教え込まれ、それがのちの竹鶴政孝のウィスキー作りにも多大な影響を与えています。
大阪高等工業学校(のちの大阪大学工学部)に入って醸造科を学んだ竹鶴政孝は西洋のお酒に興味を持ちはじめ、1916年3月に大阪市にある摂津酒造に入社して洋酒の製造部門に配属されます。その後は主任技師に抜擢されるなど酒造職人としての道を順調に歩んでいきます。摂津酒造が純国産のウィスキー作りに本格的に取り組むことを計画すると竹鶴政孝は本場のウィスキーを学ぶためスコットランドに留学することとなります。

スコットランド留学中の竹鶴政孝

1918年、本場のウィスキーを学ぶためスコットランドに留学した竹鶴政孝は、グラスゴー大学にで有機化学などを学びながら現地のウィスキー蒸留場に足を運んで見学するようになり、ついにはウィスキー蒸溜所で実習をさせてもらう事ができるようになっています。竹鶴政孝は誰もが嫌がる釜の掃除などを率先してやっていたという話が残っているほど真面目に取り組んでいました。また竹鶴政孝はスコットランド滞在中に現地の
女性ジェシー・ロバータ・カウンと知り合い、1920年1月に結婚しています。ちなみに結婚式は登記所で登記官の前で宣誓するだけの簡易的なものだったという事です。

ウィスキー発展における最大の功労者

1920年11月、新妻を連れて日本に帰国した竹鶴政孝は1922年に摂津酒造を退社します。1923年、本格ウィスキーの製造を計画していた大阪の洋酒会社寿屋(のちのサントリー)の社長に誘われて、竹鶴政孝は寿屋に入社します。竹鶴政孝は良質の水と霧が多いという条件がそろった山崎に蒸溜所を作る計画を立て、ついに1924年11月に山崎蒸溜所が誕生し竹鶴政孝は初代所長に任命されています。
1929年4月には最初のウィスキー「サントリー白札」が発売されています。その後寿屋を退社した竹鶴政孝は北海道余市町に移ってウィスキー作りに励み、1940年には「ニッカウィスキー」を発売する事となります。戦後になってからもウィスキー関係の事業に関わっていき、業界の発展に大きく貢献していくこととなります。